ひらもん君日記

完全変態も辞さない

灰色のソックスを漂白して

*全国煎茶道大会に行ってきました。

*全国煎茶道大会の詳しくは、こちらのnoteをご覧ください。はてなブログはおつまみで、日本酒における炙ったイカです。しかし、まったくの説明無しでは不躾ですので、キャベツのざく切り程度に言いますと、全国煎茶道大会とは「煎茶のお茶席がたくさん集まる会」です。

 

ところで、お茶席に参加するマナーとして白いソックスが必要らしい。

引きこもりの私は、目立ちたくない、空気で生きていきたい一心で*黒しか身につけない宗教に入信しており、白のソックスなど持ち合わせていなかった。

*中二病教と呼ばれています。

 

全国煎茶道大会への参加は*2日前に決まった。急な仕事だった。

*残業続きで就業後に白いソックスを買う時間がなかった。頼みのAmaz◯nはまとめ買いしかなく、付近のコンビニも全滅だった。白を探しているのにお先真っ暗だった。

 

白のソックスが手元になく、途方に暮れ、
暮れなずむ家の光と影を見つめていた私の目に、ふと灰色のソックスが見えた。

 

洗面所に、ハイターがあった。

漂白した。

 

全国煎茶道大会への参加は、あくまで仕事であり*上司が行くと言うので「私も行きたい」と戯言してみたところ、いともたやすく行われるえげつない行為並みの気軽さでOKが出た。ちなみに、ひとり6,500円の参加費がかかる。なんともふとっぱらな会社である。

*本当は、否応なく巻き込まれた。3ヶ月ぶりの髪を切る機会を失い、ジュリーのような髪型に拍車がかかったり、糖尿の検査が2週間後になったりした。

 

また、全国から煎茶の流派が集まるだけあり、茶器の出店がちゃきちゃき並んでいた。

普段は見かけない茶器たちがまつりのように売られ、ちょうど茶托を探していた私は、ただひたすらに茶托を覗いていた。

三千里は往復しただろうか。

ついに、気になる茶托見つけた。1枚2,500円ほどらしかった。
2枚は欲しかったため樋口一葉が必要だった。野口英世では力不足だった。


悩みに悩み、意を決して「おいくらですか?」と尋ねたところ、
*不思議なことに2,500円の茶托が1,000円になった

*この時、会社で一番偉い方(会長)が私の隣に立っていた。むしろ呼んだ。その状態で値段を聞いたところ、この現象が起こった。御威光がすごい。

 

お茶席もつつがなく終わり、茶托も購入し、日本煎茶工芸展を眺めたりして、仕事とは思えない趣味一辺倒の充実さにホクホクしていたところ、なんと、*会長が夕食をご馳走してくれるとの話になった。

*フランス料理だった。

 

ところで、自分、フランス料理を食べるにあたり、どうしても気になることがあった。

マナーとして、肉は「左から切り分けて食べる」のものだが、「何故、右から食べないのか?」と、疑問に思っていた。調べても「食べにくいから、美しくないから」と言う理由ばかりだった。

 

右から食べてみた。
確かに食べにくかった。*3切れで止めた

*隣の新卒が、フォークの背に人参の千切りを乗せて食べていた。針の糸通しも1度で決めるだろう器用さでナイフとフォークをさばいていた。その真剣さに「遊んですみませんでした……」と、心の中で猛省した。

 

 

私が、新卒で全国煎茶道大会に行った時、同じように会長が案内してくれた。しかし、ほとんど覚えていない。緊張しっぱなしだったのだろう。

もしかすると、今年の新卒も同じような状況かもしれない。そう思い、雰囲気を和らげようとはしたけれど、どこまで和らげれたのやら。

忘備録を残したい、と思った。

あなたが覚えていないことは、私が覚えている。こんなことがあったね、と、懐かしむのは年上の仕事。

 

春夏秋冬おっぱい論

おっぱいの春夏秋冬を考える。

 

音声入力したらおっぱいがお***になりました。伏字の方がエロいと思いますが、同じように*隠されたおっぱいもエロいわけです。ですから、四季折々のおっぱい、つまり、おっぱい自体ではなく衣服ありきでのおっぱいを春夏秋冬で見て観てはどうか、と思ったわけです。

*手ブラ界の存在がこの説を肯定しています。

 

まず、どの季節からはじめるか。春夏秋冬と言うくらいですから、当然、多くの人は、春が最初だと思うわけです。しかし、春は「張る」、その前に冬の「殖ゆ」がありますから、実のところ、はじまりの季節は冬ではないか。全ては静かからはじまるのではないかと思うわけで、ですから、このおっぱい論は、*冬からはじめようと思います

*一番隠れているからです。つまりは単純に冬のおっぱいが好きです。

 

ただ、春と秋は行きと帰りの関係で、行き交う方向が逆なだけで通過点は同じです。ほぼ同じと言えます。つまり、*衣服を伴うおっぱい論では同列と言うことです。

*おっぱいを隠す布の厚さ的な意味です。

 

まず冬ですが、明らかに隠されています。一枚の生地の厚さ、その積み重なりによって輪郭がぼやけ、はっきりとしません。貧乳であれば、ないものとして見られるでしょう。とにかく隠れているのです。おっぱいと言うは存在は、*冬服のしたでひそやかに旅立ちの時を育んでいます

*肥え、と言う二文字を思い浮かべた紳士淑女のみなさま。修行が足りません。良いですか、育まれるものなのです。

 

その語らなさ、無言のおっぱいに我々はえも言えぬエロスを感じ取るのです。

ただそこにあることはわかる。しかし、はっきりとしない。冬のおっぱいは抽象的で、概念でないかと疑わせる。希望のつまった*パンドラの箱と言えます。

*絶望はひとかけらもありません。

 

そうして春になると輪郭を徐々に取り戻し、ふたつの頂が姿を現し始めます。歓喜の幕開け、おっぱい開花宣言です。しかし、開放ではない。期待の息吹が芽吹きつつ、時に姿を隠し焦らしながら解放の序曲を奏でる。それが春と言うおっぱいなのです。見渡せば、桜なんかが先に咲いたりしておっぱいに華をそえます。
 
ごきげんよう。来たる栄華、夏。おっぱいの本領発揮です。そこかしこに谷間があふれ、まさにこの世はおっぱいパラダイス。外を歩けばおっぱいにあたる(確率1/2)。仏の顔も三度見る(どことは言わない)。太陽に劣らぬ熱視線がギンギラギンにさりげなくおっぱいを射抜き、街角にはたわわが実る。
 
夏の特筆は、生地の薄さ、それによりもたらされる輪郭の鋭化、視覚不透明度の低下が挙げられます。*二大巨塔でしょう。もう、隠れないのです。我々の眼前にはおっぱいがある。しかもはっきりと。シースルーなんてseeがthroughするのですから、つまりは釘付けです。
*おっぱいは二大巨丘です。
 
しかし、おっぱいの栄華は「トレンド先取り」なるファッション界の習わしにより幕引きをむかえます。*季節の終わりがおっぱいの終わりではないのです。だいたい、トレンチコートによりおっぱい終息宣言がなされます。秋になる頃には、もはやおっぱいは絶滅危惧種。哀愁よろしく消えてゆくのです。
 
季節は同じ位置に立ち、また巡ってゆきます。
 
たった4つの繰り返し。それでも飽きもせず追ってしまうのは、そこにおっぱいがあるから。そこに山があるから登るように、そこにおっぱいがあるから追うのです。これは、自明の理です。
 
四季はおっぱいのためにある。以上、春夏秋冬おっぱい論でした。