ひらもん君日記

完全変態も辞さない

春夏秋冬おっぱい論

おっぱいの春夏秋冬を考える。

 

音声入力したらおっぱいがお***になりました。伏字の方がエロいと思いますが、同じように*隠されたおっぱいもエロいわけです。ですから、四季折々のおっぱい、つまり、おっぱい自体ではなく衣服ありきでのおっぱいを春夏秋冬で見て観てはどうか、と思ったわけです。

*手ブラ界の存在がこの説を肯定しています。

 

まず、どの季節からはじめるか。春夏秋冬と言うくらいですから、当然、多くの人は、春が最初だと思うわけです。しかし、春は「張る」、その前に冬の「殖ゆ」がありますから、実のところ、はじまりの季節は冬ではないか。全ては静かからはじまるのではないかと思うわけで、ですから、このおっぱい論は、*冬からはじめようと思います

*一番隠れているからです。つまりは単純に冬のおっぱいが好きです。

 

ただ、春と秋は行きと帰りの関係で、行き交う方向が逆なだけで通過点は同じです。ほぼ同じと言えます。つまり、*衣服を伴うおっぱい論では同列と言うことです。

*おっぱいを隠す布の厚さ的な意味です。

 

まず冬ですが、明らかに隠されています。一枚の生地の厚さ、その積み重なりによって輪郭がぼやけ、はっきりとしません。貧乳であれば、ないものとして見られるでしょう。とにかく隠れているのです。おっぱいと言うは存在は、*冬服のしたでひそやかに旅立ちの時を育んでいます

*肥え、と言う二文字を思い浮かべた紳士淑女のみなさま。修行が足りません。良いですか、育まれるものなのです。

 

その語らなさ、無言のおっぱいに我々はえも言えぬエロスを感じ取るのです。

ただそこにあることはわかる。しかし、はっきりとしない。冬のおっぱいは抽象的で、概念でないかと疑わせる。希望のつまった*パンドラの箱と言えます。

*絶望はひとかけらもありません。

 

そうして春になると輪郭を徐々に取り戻し、ふたつの頂が姿を現し始めます。歓喜の幕開け、おっぱい開花宣言です。しかし、開放ではない。期待の息吹が芽吹きつつ、時に姿を隠し焦らしながら解放の序曲を奏でる。それが春と言うおっぱいなのです。見渡せば、桜なんかが先に咲いたりしておっぱいに華をそえます。
 
ごきげんよう。来たる栄華、夏。おっぱいの本領発揮です。そこかしこに谷間があふれ、まさにこの世はおっぱいパラダイス。外を歩けばおっぱいにあたる(確率1/2)。仏の顔も三度見る(どことは言わない)。太陽に劣らぬ熱視線がギンギラギンにさりげなくおっぱいを射抜き、街角にはたわわが実る。
 
夏の特筆は、生地の薄さ、それによりもたらされる輪郭の鋭化、視覚不透明度の低下が挙げられます。*二大巨塔でしょう。もう、隠れないのです。我々の眼前にはおっぱいがある。しかもはっきりと。シースルーなんてseeがthroughするのですから、つまりは釘付けです。
*おっぱいは二大巨丘です。
 
しかし、おっぱいの栄華は「トレンド先取り」なるファッション界の習わしにより幕引きをむかえます。*季節の終わりがおっぱいの終わりではないのです。だいたい、トレンチコートによりおっぱい終息宣言がなされます。秋になる頃には、もはやおっぱいは絶滅危惧種。哀愁よろしく消えてゆくのです。
 
季節は同じ位置に立ち、また巡ってゆきます。
 
たった4つの繰り返し。それでも飽きもせず追ってしまうのは、そこにおっぱいがあるから。そこに山があるから登るように、そこにおっぱいがあるから追うのです。これは、自明の理です。
 
四季はおっぱいのためにある。以上、春夏秋冬おっぱい論でした。